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梅雨の合間の7月6日参加者25名
箱根板橋駅に集合しました。 |
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参加者が多かったので2班に分かれて行動しました。
今回は小田原まちづくり応援団の平井様、片野様にガイドを
お願いしました。
当時の写真や地図などを駆使してわかりやすく小田原の町を説明していただきました。 |
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<古稀庵>(山縣有朋 別邸) |
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スタートは明治の元勲山縣有朋公が古希(70歳)を迎えたことを機に『古稀庵』と名付けた庭園を拝観させていただきました。
現在はあいおいニッセイ同和損保の研修所として利用されていますが日曜日には一般開放されています。 |
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板橋地区には歴史上の多くの有名人が別荘としてまた終焉の地として暮らしていました。
今回の参加者の多くが永年小田原に住んでいて知らなかったという声も多く聞かれました。 |
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<山月>(大倉喜八郎 別邸) |
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【登録有形文化財(平成14年8月21日登録)】
山月は、明治、大正期の実業家(男爵)大倉喜八郎が、大正9年(1920)に建築した別荘で、当時は共寿亭と名付けられていました。この建物は、外観は御殿風ですが、内部は瀟洒な造りで、関東大震災でもほとんど被害がなかった堅固な別荘建築です。
京都御所を模した庭園は、3,500坪もの広さを誇ります。庭内には伊藤博文が命名した「志ら雲の瀧」があり、傍には自書による命名記念碑が建立されています。
今回のコースには入っていませんでしたが次世代に残したい名庭園も少しだけ覗いてみました。 |
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<老欅荘>(松永安左エ門 邸) |
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現在の9電力体制を作り日本の電力事業に貢献した電力王、電力の鬼とも呼ばれる松永安左ヱ門の邸宅です。
号を耳庵(じあん)と称し茶の湯の世界では最後の数寄茶人として有名な方です。
昭和21年にこの地に移り住み本邸として晩年をここで過しました。耳庵の号は論語の六十而耳順(60にして耳に従い)から取ったものですが、当初は60歳を機に茶室の名前で使いましたが、この名前を気に入り自らの号にしました。 |
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<山角天神社> |
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通りゃんせの歌の発祥の地とも言われている |
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<対潮閣>(山下亀三郎
別邸) |
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山下汽船(現・商船三井)創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸
山下と愛媛の同郷であった海軍中将
秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」を訪ね「国防論」について相談していましたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918)2月4日未明に対潮閣内で亡くなりました(享年49歳)。
正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれています。
左手前の石碑には田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が削られています。 【碑文】
うちたたく人ありてこそ よの中になりもわたらめ つりがねの石 光顕
(現地案内板より)
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<清閑亭>(黒田長成
別邸) |
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清閑亭は黒田長成侯爵の別荘だった邸園(邸宅と庭園)です。
この地は小田原城三の丸土塁の一角を占め、小田原の町や相模灘を一望する素晴らしい眺めに恵まれています。
明治39年(1906)から黒田家の別荘となり、戦後は浅野侯爵家を経て、第一生命保険会社の施設として使われてきました。平成17年(2005年)、建物が国の有形文化財に登録され、翌年には敷地が国の史跡に指定されたのち、平成20年(2008)小田原市の所有となりました。
清閑亭周辺は「天神山」と呼ばれ、箱根からのびてきた尾根の先端部です。 |
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<小田原文学館>(田中光顕 別邸) |
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小田原文学館の建物は、幕末の志士で、元宮内大臣でもある田中光顕伯爵が別邸として建てたものです。
昭和12年建築の洋館は、当時の上流階級の間で流行した南欧風の造りで、屋根瓦はスペインから輸入したものです。 |
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「海よし山よし天気よし」
明治の文豪斎藤緑雨は小田原をこう評しました。
その温暖な気候ゆえに、昔から大変住みやすいところとされ、明治時代には伊藤博文や山県有朋など政界の重鎮はじめ、多くの人々が別荘を建て、保養地として、また居住地として小田原にやってきました。
その中には文学者の姿も数多く見られ、北原白秋のように家族の療養のために訪れたもの、坂口安吾のように寒さから逃れるために来たもの、中には人の目から隠れるようにやってきた文学者もいて、その数は著名な作家だけでも十数名にのぼります。そしていつしか小田原を気に入り、定住していった文学者も少なくないのです。
オダワラニハ、また、ここを故郷とする文学者もたくさんいます。
明治のはじめに島崎藤村とともに「文学界」を創刊した北村透谷、芥川賞作家で文化勲章を受章した尾崎一雄、また民衆詩派の中心詩人であった福田正夫や昭和20年代後半「抹香町もの」で一世を風靡した川崎長太郎など様々です。 |
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<ういろう本店> |
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ご存知「ういろう」です。
幸いなことに現在の当主が小田原藩龍馬会の会員ということで裏にある蔵まで通していただき自ら解説していただきました。
外郎家の始祖は、支那台州に千四百余年続いた公家となる陳延祐が帰化した正平23年(1368)に遡る陳延祐は、筑前博多に来た際に元での役職名でした。
礼部員外郎から一部をとり、更に官職名と間違えられないよう読み方も変え、陳外郎と名乗るようになったのが「ういろう」の由来となります。
応永2年(1395)、外郎が没したのち息子の大年宗奇は、足利義満の招きで京へ上り、効能顕著な「霊宝丹」を天皇へ処方した際に「透頂香」の名を賜り、今もなおその名と受け継いでいるこの丸薬を処方したのが、外郎家であったため「ういろう」と呼ばれるようになり、外国信徒の接待役でもあった大年宗奇がもてなした菓子もまた「菓子のういろう」と呼ばれるようになりました。
その後、足利氏の祖籍である宇野源氏の世継をした5代目定治が、永正元年(1504)北條早雲に招かれ小田原へ来住し陳外郎宇野藤右衛門定治と名乗り薬と菓子を造ったのが「小田原外郎家」の創業となります。 |
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ここに案内している場所だけでなくたくさんの小田原の遺産となるべき場所を見て歩くことが出来ました。
天候ににも恵まれ参加者全員で有意義な時間を過ごすことが出来ました。ありがとうございます。 |